日本絹の里を行く

「空っ風に乗って」


草津ー高崎、地域再生実践塾http://www.chiiki-dukuri-hyakka.or.jp/6_gyomu/jissen/h19gyo_jissen_h19_05_takasaki_kusatsu.htm
第4日番外編


北関東は奈良と不思議で深い縁がある。(”おいしい生活”の糸井重里氏も群馬出身。
鶴瓶の家族に乾杯」、これまで彼の関西弁が苦手で見通したことがなかったが、軽やかな糸井氏の反応が面白く、かつ丹後の黒豆探訪とのことで、先週からじっくり観察中。17日は続編ーとはいえ、やはり関西弁に疲れた。)

2005年、第3回地域再生実践塾が
埼玉県入間市http://nakagawamachi.net/news+index.storytopic+0+start+20.htm
染織試験場をコンバージョンした劇場兼多目的施設で開催された折に参加したグループのワークショップのテーマが秩父銘仙館のリメイク戦略。ここで、秩父市から和銅開寶の銅が藤原京に送られたと参加していた市職員から聞き、終了後、予定を延長して秩父。実に敏捷で気配りに富む館長が対応くださった駅前の観光案内所で、途中パソコンが壊れて未点検のメール処理を済ませるとともに武甲山を眺望する宿をお世話いただき、翌朝は秩父神社秩父宮関連遺品を、これまた親切な若い禰宜さんの案内で観覧。にわか旅行ながら、充実した歴史体験・調査ができた。この情報に対する敏捷性に坂東武者たちを思った。おりしも鎌倉・鶴岡八幡宮総代の方々のバス旅行の終端にも遭遇した。

あれから3年、今回は徹底的に「絹」に出会った。15日は高崎駅西口前の東横イン禁煙棟に泊まり、フロントにある宿泊客用のパソコンでよろず点検。翌日、市民の肉声に接するには日常空間が最善であるとバスを利用すべく
バス停の説明窓口へ。ふと思いついて観光案内所があるかと尋ねたところ、
JR駅の1階にあるという。「県がやってるから多分5時ぐらいまで」(正確には9時半から午後6時まで。昼1時半から2時半までは昼食のため閉まる)という情報を元に
荷物を持って駅東口に。柳川市で地芝居サミット開催という竹で組上げた桟敷が写真で印象的に割り込んでいる張り紙が眼に止まり、質問。
担当の女性がプログラムまで丁寧に照会してくださり、「”制作中”の途中でいいからファックスで送って」と促してくださり、その他、適切きわまるアドバイス。このプログラムによれば次期開催地が小豆島となっているのにさらに関心。民間NPOの小豆島プロジェクトと何か関係があるのだろうか?(東横インでは朝日新聞朝刊を自由にもちかえり可能で、ここで、とりあえず抜き出したぐんま朝日の紙面特集で柳川市の舞台が特集されていたのに気づいたのは帰宅後の荷解き後)。何かある!と再度、読みそびれた「ベルツ花」夫人はじめ関連資料を求める用事も兼ねて訪群予定。

さて、市内循環バスが不思議なルートを形成しているのは最近の市町村合併の故であると気づいたのは、バス下車後30分ほど車道まじりで歩いて到着した「日本絹の里」で、元養蚕試験場技師で現在「富岡製糸場世界遺産伝道師協会」(事務局=群馬県新政策課世界遺産推進室内)の伝道師という肩書きもお持ちの斎藤敏弘氏とのお話から。静かにじっくり展示を見、可能な限りの紙資料を取り、そして幾つか理解の域を出た項目をお聞きしたいとカウンターで尋ねたところ、それこそ、草津温泉さながら、絹産業への薀蓄が愛着とともに湧出。


 
 私が関心を持ったのは、やはり県の観光案内所にあった「高崎市新町紡績所」を世界遺産にというカラーちらし。これは、明治10年、国内初の「内務省勧業寮屑糸紡績所」として大久保・大熊・伊藤・松方・前島ら明治政府首脳がそろって開業式典、翌年は明治天皇行幸が続いたという由緒ある近代産業資産。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%94%BA%E7%B4%A1%E7%B8%BE%E6%89%80
「これを世界遺産に」という活発な市民の運動
http://www.shinmachi.or.jp/bosekijo/index.htmの熱気が一枚のちらしに込められていた模様。
 この「日本絹の里」の展示解説でさらにこの産業遺産の大きな意義を理解できた。
蚕の繭から糸を取り出す始めと取り出した後のわたくず様品をさらに糸として利活用するための施設。勿体ない精神、エコロジーとして大いに評価できる環境資源といえるのではないか。
 斎藤伝道師によると、もれ落ちている絹産業遺産群として「伊勢崎市の嶋村蚕種地区」http://www.ttrl.pref.gunma.jp/spot/isesakishi.htmがあるという。
つまり蚕産業のアルファとオメガ、最初と最後が欠落した遺産群となっているのだ。

シルクロードの終着駅「奈良」と銘打ったならシルクロード博覧会が1988年に奈良で開催されたが、横浜開港後、この群馬を起点とする「関東シルクロード・絹の道」が鉄道敷設事業にまでいたる「鉄の道」にもなって北関東の経済を振興し、日本の近代化に大きく貢献した。
 この鉄の道は線路敷設に伴って土砂を採取した窪地でコイを養殖し、繭から出た蚕をそのエサとするという副産業ももたらした。風土と資源を徹底的に利用する、日本人の創意工夫の精神までも絹産業は物語っている。
この小さな蚕から哺乳類最大規模の鯨まで、惜しみなく活用しつくす、真実の愛の精神であると多彩で絢爛たつ絹製品とともに誇ってよい日本の文化の背後の精神的モデルとして全世界に喧伝されてよい近代遺産といえよう。

この世界遺産リスト暫定登録の”同期生”が奈良県における第4の世界遺産となる「飛鳥藤原の宮都とその関連資産群」である。最近、この登録リストに関連する市町村代表が集まって連絡協議会が発足した。ここにおいて欠落している重要な町が明日香村に隣接し、古来宮都の建設他に重要な役割を果たした渡来人(征夷大将軍坂上家の元祖・東漢氏=つまり、サムライ大御所のメッカ)が居住し、古墳の数は明日香村よりも多く、飛鳥の石造物をプロデュースした女帝・斉明天皇陵があり、石造技術の中世への痕跡として日本3大山城の一つ高取城跡が残る高取町である。
 都を作ったのは、ときの運に恵まれて為政者となった人物とその関連者たちだけではない。片道切符同然で都に税を運んだ”国民”たちの汗と万葉集の「貧窮問答歌」が伝える涙であり、その政争の影で抹殺された無数の声や流血。
 それらを超えた歴史の証人として今に姿をとどめている遺跡群を資産と呼ぶことの意味を、「ものづくり大国」として戦後経済復興を果たし、明治以来第2の開国といわれる国際化の文脈の中で考えるならば、「古代シルクロードの終着駅」奈良としてどう決断し行動するかは自明であるはずだが・・・。

今回の地域再生実践塾では、中沢ビッレジ一族でもある中沢敬草津町長のプレゼン内容は「温泉」を「薬草」と置き換えれば、そのまま、この渡来人たちに由来する薬草を元にした薬の産地であり、全国展開した配置薬産業の拠点であった高取のブランド戦略に適用されると思った。かつ、ベルツという近代医学の父と奈良という国家の始まりの医薬者たち、特に鑑真を中国医薬においてヒポクラテスのような象徴としている
中国医学界の精神はその後どうなっているのかと考えつつ、草津においては、ベルツの時代をもう一度、その夫人の側から再考してみることは黒川温泉のカリスマのいう
女性マーケット開拓促進につながるであろうと思った。

ちなみに19年度の実践塾第3回、九州インバウンド観光戦略に関する受講生の詳細なブログを発見。長崎も世界遺産登録同期ながら、26聖人の碑から大浦天主堂は、現在もなも建設中の高層建造物群に阻まれて眺望できなくなっていた。http://www.yamatogokoro.jp/report/2007/09/post.html