五條訪問記

koto-keizaiken2008-04-27









明治再発見ー奈良・五條、藤岡長和邸から五條市に藤岡長和という、旧帝国大学時代の東大を経て公選制時代の知事を
勤めたのち玉骨と号して県下の俳壇の王者であった人物の生家である庄屋の家が
国の登録有形文化財となって公開準備中。活用方策を考案中ということで、この理事長が
吉野名物・柿の葉寿司の経営者であり、自ら幾つかの集いでその熱い思いを語っておられたので
百聞は一見に如かずと見聞に出かけた。
憲法記念日の前にこれを記すのは藤岡長和氏が、敗戦直後の東大総長・南原繁
同期に東大政治学科を卒業し、同様に文官試験を経て内務省役人と
なっているということが、克明な年表から明らかになったからである。
五條市には木村篤太郎http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9D%91%E7%AF%A4%E5%A4%AA%E9%83%8Eの生家が「まちや館」として保存され、幼少時の勉強部屋やその交遊ぶりが
伺える展示もある。
古代もさることながら、近代政治を考える上で大変重要な地点である。

ちなみに南原繁は以下のような経歴である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8E%9F%E7%B9%81
1889年9月 香川県大川郡相生村(現在の東かがわ市)に婿養子の父・貞吉(三好氏) 母・きくの次男として生まれる。南原家は母・きくの何代か前の甚左衛門が同村南野小井楠家より分家、屋号岸野屋と称し製糖業を営む。祖父・松蔵は組頭役を務めたが母・きくの幼時にいたり家運傾き和裁の師匠をして生計を立てる。明治の初めまで姓を楠と称したが本家とともに南原(訓はみなみはら。のち、なんばらとなる)と改め、婿養子を迎えた。しかし、繁の幼少時に最初の婿養子であった実父が出奔、母は2歳の繁を戸主として届け出る。
1895年 広瀬藤太郎、養父としてきくと結婚。
1901年4月 香川県大川郡教員養成所に入所。
1907年3月 香川県立大川中学(現・香川県立三本松高等学校)卒業。
1910年6月 第一高等学校卒業。
同年7月 東京帝国大学法学部政治学科に入学する。入学後、内村鑑三の弟子となり、生涯を通じて無教会主義キリスト教の熱心な信者であった。一高に入学したときの校長は新渡戸稲造であり、影響を受けた。
1914年7月 東京帝国大学法学部政治学科卒業後内務省入省。
1917年3月 富山県射水郡郡長に任ぜられる。
1919年1月 内務省警保局事務官に任じられる。労働組合法の草案作成などを手がける。
1921年5月 内務省を辞め、東京帝国大学法学部助教授に就任。内務省時代、アテネ・フランセでフランス語を学んでいた。ヨーロッパ留学を経て、小野塚喜平次の後任として、政治学史を担当。
1925年8月 教授となり、政治学史を担当。西欧の政治哲学とキリスト教をバックボーンに共同体論を深め、その研究は、1942年(昭和17年)『国家と宗教――ヨーロッパ精神史の研究』(岩波書店、1942年)、『フィヒテの政治哲学』(1959年、岩波書店)に結実する。福田歓一政治学史)、丸山眞男(日本政治思想史)は彼の教え子である。
1945年3月 東京帝国大学法学部長に就任。高木八尺、田中耕太郎、末延三次、我妻栄、岡義武、鈴木竹雄とともに終戦工作に携わるが失敗に終わり、敗戦を迎える。
同年12月 東京帝国大学総長に就任
1946年2月11日 紀元節には日の丸をかかげ、日本精神そのものの革命を通じての「新日本文化の創造」を説く。3月貴族院議員に勅撰(〜1947年5月)単独講和を主張した当時の内閣総理大臣吉田茂に対し全面講和論を掲げ、論争となった。このことで、南原は吉田茂から「曲学阿世の徒」と名指しで批判された。
1950年3月 退官。その後学士会理事長、日本学士院院長などを歴任。アララギ派歌人としても知られ、歌集『形相』がある。