墳墓から大和説が有力になるのだが。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD
対海国、一大国、末廬国、伊都国、奴国、不彌国、投馬国に関しては、「魏志倭人伝」に詳しい記述がある。その他、斯馬国、百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国[5]があり、邪馬壹国はこれら20数カ国を支配していた。日本列島の全てを支配した訳はなく領域外の国々もあり、特に男王卑弥弓呼が治める南の狗奴国とは不和で戦争状態にあった。

邪馬台国の北方の諸国には一大率という官が置かれ、諸国を監視していた。一大率の役所は伊都国にあり、魏の刺史[6]のような役目を果たしていた。伊都国は外交の中心地で、魏や韓の国々の使節や通訳は、ここに停泊して文書や贈物の点検を受け女王に送っていた。

租税や賦役の徴収が行われ、国々にはこれらを収める倉がつくられていた。また、市場が各地に開かれ、大倭という官がこれを監督していた。

女王は景初2年(239年)以降、帯方郡を通じ数度にわたって魏に使者を送り、皇帝から親魏倭王に任じられた。正始8年(248年)には、狗奴国との紛争に際し、帯方郡から塞曹掾史張政が派遣されている。魏志倭人伝の記述によれば、朝鮮半島の国々とも使者を交換していたらしい。

卑弥呼が死去すると大きな墳墓がつくられ、100人が殉葬された。その後、男王が立てられたが、人々はこれに服さず内乱となり1,000人が死んだ。そのため、卑弥呼の親族で13歳の少女だった壹與(臺與)が王に立てられた。先に倭国に派遣された張政は檄文をもって壹與を諭しており、壹與もまた魏に使者を送っている。