第8回 万葉古代学研究所公開シンポジウム のご案内

万葉集民族学

 第5回万葉古代学研究所主宰共同研究「万葉の深層を探るエスノアルケオロジー的研究―とくに海洋伝承を中心に―」(平成21・22年度実施)の成果の一部を、広く一般に向けて公表。

                                                                                                                                                              • -


日  時 平成23年9月25日(日) 10:30〜17:00
                          ※10:00開場

テ ー マ 「万葉集民族学

場  所 奈良県立万葉文化館 企画展示室
   


内 容 等
はじめに 後藤 明 (10:30-10:40)

<第1部>万葉世界の海と山、生と死
         「海から見た万葉の景観」(10:40-11:10)
           石村 智 (奈良文化財研究所研究員)
         「山の景観とコスモロジー」(11:10-11:40)
           大西 秀之 (同志社女子大学准教授)
         「海と墓−瀬戸内と南島を例に−」(11:40-12:10)
           角南聡一郎 (元興寺文化財研究所主任研究員)
         「葬送船の記憶」(12:10-12:40)
           深澤 芳樹 (奈良文化財研究所都城発掘調査部長)

             昼休み (12:40-13:30)

<第2部>万葉世界の食と植物
         「稲作をめぐる万葉集の景観」(13:30-14:00)
           細谷 葵 (総合地球環境学研究所プロジェクト研究員)
         「古代のヒレと手巾(ティサージ)」(14:00-14:30)
           東村 純子 (国立民族学博物館外来研究員)
         「万葉集における水と飲料の文化」(14:30-15:00)
           木村 栄美 (総合地球環境学研究所外来研究員)

            休憩 (15:00-15:10)

<第3部>万葉世界の動物たち
         「ウミガメにまつわる報恩説話と禁忌伝承」(15:10-15:40)
           藤井 弘章 (近畿大学准教授)
         「守護神としてのサメにかんする伝承」(15:40-16:10)
           辻 貴志 (国立民族学博物館外来研究員)

            休憩 (16:10-16:15)

コメントと討論(16:15-17:00)




募集人数   150人(先着順)


参 加 料  500円(資料代含む)


申込方法 往復葉書による事前申込みが必要です。
「9/25公開シンポジウム参加希望」と書き、郵便番号・住所・氏名・電話番号を明記して、下記の住所へ郵送してください。(一枚で一名分の応募となります)






鉄斎の話が出た。
富者には書を。
貧者には絵をかき与えたという。







鉄斎翁
富岡 鉄斎(とみおか てっさい、1837年1月25日(天保7年12月19日)- 1924年12月31日)は、明治・大正期の文人画家、儒学者。日本最後の文人と謳われる。




目次
[非表示] 1 生涯
2 作品と画業
3 代表作品
4 出版物
5 関連事項
6 出典図録

生涯 [編集]




仙縁奇遇図 1919年 紙本着色
京都(三条通新町東)法衣商十一屋伝兵衛富岡維叙の次男として生まれる。幼名は不明。猷輔を通称とし、のちに道昴・道節と称し、明治のはじめ頃、一時名を鉄斎としたが、しばらくのち百錬に改名。字を無倦、号を鉄斎。別号に鉄人、鉄史、鉄崖など。

耳が少し不自由であったが、幼少の頃から勉学に励み、はじめ富岡家の家学である石門心学を、15歳頃から大国隆正に国学や勤王思想を、岩垣月洲らに漢学、陽明学、詩文などを学ぶ。

安政2年(1855年)18歳頃に、女流歌人大田垣蓮月尼に預けられ薫陶を受ける。翌年、南北合派の窪田雪鷹、大角南耕に絵の手ほどきを受け、南画を小田海僊に、大和絵浮田一螵に学んだ。

文久元年(1861年)には長崎に遊学し、長崎南画派の祖門鉄翁、木下逸雲・小曽根乾堂らの指導を受けた。

翌2年、山中静逸と出会いをきっかけに、画業で生計を立て始めた。この頃私塾を開設。藤本鉄石・板倉槐堂・江馬天江・松本奎堂・平野国臣らと交遊した。

維新後の30歳から40代半まで大和国石上神宮和泉国大鳥神社の神官(宮司)を勤めた。この頃、大和国式内社加夜奈留美命神社を復興している。

座右の銘である「万巻の書を読み、万里の道を往く」を実践し、日本各地を旅した。明治7年(1874年)には、松浦武四郎との交流から北海道を旅し、アイヌの風俗を題材にした代表作「旧蝦夷風俗図」を描いている。

30歳で中島華陽の娘と結婚。長女が生まれるが妻とは死別。のちに再婚し長男を授かる。明治14年1881年)、兄伝兵衛の死に伴い京都薬屋町に転居し、終の住処とする。

教育者としても活躍し、明治2年(1869年)、私塾立命館で教員になる。明治26年1893年)、京都市美術学校で教員に就任し、明治37年(1904年)まで修身を教える。

大正13年1924年)大晦日、持病であった胆石症が悪化。京都の自宅にて没する。享年90。