Remember Pearl Buck

インバウンド観光をテーマとする長崎で開催された地域再生実践塾。何よりも長崎の海の風景が素晴らしかった。
そしてパールバックというわが心の中で化石になりつつあった
小説家の名前を天草四郎の雲仙とともに思い出した。
Remember Pearl Buck
朝日の記事でネットの海原をフロートしているものがあり、とりあえず捕獲。
保養地である雲仙市に滞在した外国人の一人でもある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BBS%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%83%E3%82%AF


http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200708090104.html

原爆巡る科学者の葛藤描く パール・バックの小説出版
2007年08月09日10時26分
 米国のノーベル賞作家パール・バック(1892〜1973)が、原爆の開発に携わった科学者たちをモデルに書いた小説『神の火を制御せよ―原爆をつくった人びと』(径書房)が、発表から半世紀近くを経て日本で出版された。戦後は反核運動に取り組んだバックが、史実に基づき描いた科学者たちの愛と葛藤(かっとう)。前防衛相の原爆投下「しょうがない」発言が大きな波紋を呼んだ被爆国・日本とはまた違った原爆観が浮かぶ。
1960年に来日した際のパール・バック
パール・バック著『神の火を制御せよ―原爆をつくった人びと』

 原書「Command the Morning」は59年に米国で出版され、版を重ねるベストセラーになった。ドイツやフランスなどでも翻訳が出版され、60年代の欧米の反核運動に影響を与えたという。
 だが、代表作『大地』を始めバックの約30作が邦訳されている日本では、これまで雑誌の付録として抄訳されたことはあったが、全訳は出版されなかった。監修した丸田浩さんは、「被爆国として核への拒絶反応が強い日本では、アメリカ側からの視点が受け入れられないと思われてきたからだろう」と推測する。
 物語は、バート、スティーブ、ジェーンの3人を中心に、当時の一線科学者たちが時代の渦の中で米国の原爆製造計画(マンハッタン計画)に加わり、科学の粋を集めて作りあげた原爆が意に反して広島と長崎に投下されるまでを描く。
 専門用語が多く使われる一方、3人の中の恋愛感情や夫婦の確執、スパイ工作なども織り交ぜたストーリーは起伏に富み、娯楽性も高い作品になっている。
 「核兵器の製造には加担したくない」というスティーブを、バートは「悪魔の仕事だ。だが、ほかの悪魔が先につくったらどうする?」。ジェーンは「使ってはならない。敵(ナチス)に見せつけるだけよ」と説得する。
 しかし、ナチスドイツへの抑止力のために始まったはずの計画は、真珠湾攻撃による日本参戦などで思わぬ方向へ動き出す。原爆の実戦使用に反対する嘆願書にジェーンは署名するが、バートはせず、スティーブは迷う。
 原爆が戦争終結を早め、多くの命を救った――原爆投下を正当化してきた米国のこの論理を、物語の終盤でバートも口にする。
 戦後、バートは広島、長崎を訪ねて深い後悔の念に駆られるが、「戦争を終わらせる方法はほかになかった、仕方なかった」と考える。原爆を使わないよう米政府に働きかけたスティーブは消沈し、一貫して投下に反対したジェーンは一時インドに逃れた後に光合成の研究に取り組む。
 がんの研究者でもある丸田さんは、科学者はどんな発明や発見をしても、それを自らが制御できなくなる危険と常に背中合わせだと指摘。「だからといって、そこに進歩の可能性がある限り、探求心を抑え切れないのもまた科学者だ。自分がジェーンやスティーブだったらどうしたかと考えてみることは、戦時下の原爆開発という史実をとらえる上で重要だ。若い人たちにも読んで欲しい」と話す。
 パール・バック研究家ピーター・コン氏の評伝などから、バートら3人は実在した科学者がモデルと見られ、ジェーンにはバックが自身を投影させた部分もあるのではないか、と丸田さんはみる。また、アインシュタインやエンリコ・フェルミリーゼ・マイトナーら約20人の科学者が実名で登場し、当時の核研究や開発競争の緊迫が伝わる。
 径書房代表の原田純さんは、唯一の被爆国としてその悲惨さを告発する言説が主流だった日本でこの小説がどう受け止められるのか、読者の感想を募りたいという。「真珠湾か広島・長崎か、被害者か加害者かという二項対立の原爆論から抜け出さないと、建設的な論議は難しい。本書がその一助になれば 」
 小林政子訳。税込み2415円。