あみこもびより

あみこもびより
http://gosyo-shop.jp/
というHPを発見、100均で買った毛糸についていたのだが、
編み針が見当たらないまま放置していたのだ。
毎日何かを編んでいこう。
しかし、この糸から出る細い糸くずの半端ではないこと。
いつどこで購入したのか、わすれた毛糸だが、
困ったものだ。

なんでも鑑定団という番組があり、
日曜日のお昼は報道ステーションの前半を適当に聞き流し、
後半の特集をしっかり見て、それから地元の奈良テレビで鑑定団を
見るのを楽しみにしている。

特に出張鑑定として全国のハコモノのステージが見られるのが楽しい。
本日は大分県杵築市のホールで、カラオケ大好きで神社まで建てた県会議員さんが
カラオケの準備運動としてステージの上に仰臥したのだが、その床の見事な白い材に驚いた。

また、茨城県で映画製作を志すという人が、逼塞中の徳川斉昭http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%96%89%E6%98%ADがともに失意中の川路聖謨http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E8%B7%AF%E8%81%96%E8%AC%A8に贈った
自作の茶碗を含む茶道具一式に川路聖謨が箱書きした一級資料が出品していた。120万で購入し、700万以上の価値という驚くべき
評価を得た。
「川路はは江川英龍渡辺崋山らとともに尚歯会に参加し、当時の海外事情や西洋の技術などにもある程度通じていた。

水野忠邦天保の改革で挫折して失脚した後、奈良奉行に左遷されている。奈良奉行時代には行方不明となっていた神武天皇陵の捜索を行い、『神武御陵考』を著して朝廷に報告している。後に孝明天皇がこれを元に神武天皇陵の所在地を確定させたといわれる。」
当然、吉野へ出向き、山サクラを見たであろう山桜に斉昭が思いを重ねるように棗に描かれ
また、確か吉野のよい竹が手に入ったから斉昭に届けたかなにかという由来もあったらしい。
詳細はおぼろなのだが、時折聞き逃せない場面が出てくる。
陶器だけが斉昭の作で、それにあわせて川路が茶道具を調え、その没後一括して流出したのであろう。
斉昭はこのため、安政5年(1858年)6月に将軍継嗣問題及び条約調印をめぐり、越前藩主・松平慶永尾張藩主・徳川慶恕、一橋慶喜らと江戸城無断登城の上で井伊直弼を詰問したため、逆に直弼から7月に江戸の水戸屋敷での謹慎を命じられ、幕府中枢から排除された。

安政6年(1859年)には、孝明天皇による戊午の密勅が水戸藩に下されたことが井伊直弼の逆鱗に触れ、水戸での永蟄居を命じられることになり、事実上は政治生命を絶たれる形となった(安政の大獄)。
万延元年(1860年)8月15日、蟄居処分が解けぬまま心筋梗塞により水戸で急逝した。享年61(満60歳没)。
川路 聖謨(かわじ としあきら)は享和元年4月25日(1801年6月6日) - 慶応4年3月15日(1868年4月7日))
安政5年(1858年)には堀田正睦に同行して上洛、朝廷に日米修好通商条約の承認を得ようとするが失敗、江戸へ戻った(条約は弟の井上清直と岩瀬忠震が朝廷の承認が無いままタウンゼント・ハリスと調印)。井伊直弼大老に就任すると一橋派の排除に伴い西丸留守居役に左遷され、更に翌年の8月27日にはその役も罷免されて隠居差控を命じられる。文久3年(1863年)に勘定奉行外国奉行に復帰するも、外国奉行とは名ばかりで一橋慶喜関係の御用聞きのような役回りに不満があったようで、病気を理由としてわずか4ヶ月で役を辞する。
この時期のものだろう。

幕末にこのような「やまとごころ」を備えた官僚がいたことは、奈良時代に鑑真和上をひそかに自己の船に乗せ、5度の海難を超えて
日本に招いた大伴古麻呂の外交の信念にも匹敵するといえるかもしれない。

以下も引用しておく。
嘉永6年(1853年)、阿部正弘に海岸防禦御用掛に任じられ、ペリー艦隊来航に際し開国を唱える。また同年、長崎に来航したロシア使節エフィム・プチャーチンとの交渉を大目付格槍奉行の筒井政憲とともに担当し、安政元年(1854年)に下田で日露和親条約に調印。その際ロシア側は川路の人柄に大変魅せられたという。
日露交渉の応接でロシア側は川路の人柄に魅せられて、その肖像画を書こう(写真をとろう)とするが、それを聞いて川路はロシア人に「私のような醜男を日本人の顔の代表と思われては困る」と発言し彼らを笑わせた。この時、プチャーチン随行していたイワン・ゴンチャロフは次のように書いている。
「川路を私達はみな気に入っていた。(中略)川路は非常に聡明であった。彼は私たちを反駁する巧妙な弁論をもって知性を閃かせたものの、それでもこの人を尊敬しないわけにはゆかなかった。彼の一言一句、一瞥、それに物腰までが、すべて良識と、機知と、炯眼(けいがん)と、練達を顕していた。明知はどこへ行っても同じである。」

プチャーチンは帰国後に「日本の川路という官僚は、ヨーロッパでも珍しいほどのウィットと知性を備えた人物であった」と書いている。
この後明治20年(1887年)、プチャーチンの孫娘のオルガ・プチャーチナ伯爵は所縁の地戸田村を訪ね、そこに100ルーブルの寄付をしている。その後の歴史の激動の中にも両家の交流は続き、平成20年(2008年)にも日露修好150年を祝っている。

訃報:筒井寛秀さん88歳=東大寺長老

東大寺長老・筒井寛秀さん=2006年11月、大森顕浩撮影 筒井寛秀さん88歳(つつい・かんしゅう=東大寺長老、元同寺別当華厳宗管長)23日、肺炎のため死去。葬儀は26日午後1時、奈良市司町406の1の東大寺塔頭(たっちゅう)の自坊・龍松院。喪主は東大寺執事長の長男寛昭(かんしょう)さん。本山葬の日程は未定。

 奈良市出身で1935年に得度。大正大卒。東大寺執事長などを経て90年、第212世別当華厳宗管長に就任。祖父寛聖さん、父英俊さんに続く3代の別当東大寺初となった。

 大仏殿の昭和大修理では、勧進部長として資金集めに全国を回った。別当在任中は、南大門の国宝・金剛力士立像の解体修理や境内の総合防災工事に取り組んだ。鎌倉時代東大寺を再興した高僧、重源上人の研究家としても知られる。著書に「学僧多忙」などがある。

毎日新聞 2010年1月24日 18時51分(最終更新 1月24日 18時54分)