社会福祉協議会>午前10時半から前庭で
復興支援フェアも。
http://www.pref.nara.jp/secure/74332/shahukutaikai.pdf
上記には出向かず
平城宮跡資料館の「地下の正倉院展」で万葉集巻16−3885,3886に出会う。
http://www5e.biglobe.ne.jp/~elnino/Folder_Opinions/Folder_CultureArt/Op_JMeatEating.htm
 ■万葉時代は獣肉を全体摂取し、動物に感謝して居た
 時代が進み、『万葉集』に歌われた7〜8世紀には次の様な興味有る歌が載って居ます。『万葉集』巻16−3885、3886の乞食者の詠(ほかひびとのうた、※9)二首(△5)がそれで、3885の長歌は次の如くです。
      ...(前半略)...
  二つ立つ 櫟(いちひ)が本に 梓弓 八つ手挟み ひめかぶら
  八つ手挟み 鹿(しか)待つと わがをる時に さを鹿の
  木立嘆かく たちまちに 吾は死ぬべし 大君に 吾は仕へむ
  わが角は み笠のはやし わが耳は み墨のつぼ
  わが目らは 真澄の鏡 わが爪は み弓の弓弭(ゆはず)
  わが毛らは み筆料(ふみてはやし) わが皮は み箱の皮に
  わが肉(しし)は み鱠(なます)はやし わが肝も み鱠はやし
  わがみげは み鹽(しほ)のはやし
      ...(後半略)...
 【脚注】※9に在る様に、「ほがいびと(乞児、乞食者)」とは古代の芸能や芸人の発祥に深く関わりを持ち乍ら日本芸能史の闇の中に消されて行った人々です(その理由は後述します)。この長歌は鹿を捕獲し解体して大君(=大王)に供する時の祝い歌、つまり大王が獣肉を食するのは「ハレ(晴)」の行為でした。この歌で各部位をどの様に利用して居たかが解ります。特に肉や肝は鱠(※10)、即ち薄く細く切り時には酢で保存が利く状態にして供して居た様ですね。「さを鹿」は牡鹿です。これを読むと万葉時代の人々が猪や鹿を屠る時は単に肉を食すだけで無く内臓も食し、食べられない部分は道具の素材として役立て隅々の部位迄利用して居た、つまり全体摂取・全体利用して居たことが解ります。

さらに詳しくは
建築労働者というが国文の素晴らしい解釈を示してくださっている
ブログhttp://blog.goo.ne.jp/taketorinooyaji/e/21e888f916a3b5e3bb97772b67e3a1b6
乞食者詠歌二首
標訓 乞食者(こつじきひと)の詠む歌二首
集歌3885 伊刀古 名兄乃君 居々而 物尓伊行跡波 韓國乃 虎神乎 生取尓 八頭取持来 其皮乎 多々弥尓刺 八重疊 平群乃山尓 四月 与五月間尓 藥猟 仕流時尓 足引乃 此片山尓 二立 伊智比何本尓 梓弓 八多婆佐弥 比米加夫良 八多婆左弥 完待跡 吾居時尓 佐男鹿乃 来立来嘆久 頓尓 吾可死 王尓 吾仕牟 吾角者 御笠乃婆夜詩 吾耳者 御墨坩 吾目良波 真墨乃鏡 吾爪者 御弓之弓波受 吾毛等者 御筆波夜斯 吾皮者 御箱皮尓 吾完者 御奈麻須波夜志 吾伎毛母 御奈麻須波夜之 吾美義波 御塩乃波夜之 耆矣奴 吾身一尓 七重花佐久 八重花生跡 白賞尼 〃〃〃

訓読 愛子(いとこ) 名背(なせ)の君 居り居りて 物にい行くとは 韓国(からくに)の 虎といふ神を 生け捕りに 八つ捕り持ち来 その皮を 畳に刺し 八重畳 平群(へぐり)の山に 四月(うづき)と 五月(さつき)との間に 薬猟(くすりかり) 仕(つか)ふる時に あしひきの この片山に 二つ立つ 櫟(いちひ)が本に 梓弓 八つ手挟み ひめ鏑(かぶら) 八つ手挟み 鹿(しし)待つと 我が居(を)る時に さ牡鹿(をしか)の 来立ち嘆(なげ)かく たちまちに 我れは死ぬべし 大君に 我れは仕(つか)へむ 我が角は 御笠(みかさ)のはやし 我が耳は 御墨(みすみ)の坩(つぼ) 我が目らは 真澄の鏡 我が爪は み弓の弓弭(ゆはず) 我が毛らは 御筆はやし 我が皮は 御箱の皮に 我が肉は 御膾(みなます)はやし 我が肝も 御膾(みなます)はやし 我が眩(みげ)は 御塩(みしお)のはやし 老いたる奴(やつこ) 我が身一つに 七重(ななへ)花咲く 八重(やへ)花咲くと 申(まを)し賞(はや)さね 申し賞さね

私訳 麗しい人、名のある方々、大勢がいらっしゃいますが、どこかに行くとは大変なことで、韓国にいる虎という神を生け捕りにして八頭も捕まえて来て、その皮を敷物に作って八重の敷物を重ねる平群の山並みに、四月と五月の間に薬狩に奉仕するときに、足を引くような険しい、この片山に二本立っている櫟の木の下で、梓弓を八つも手に持って、ひめ鏑を八つも手に持って、鹿を待って私がいると、牡鹿がやって来て嘆くには「すぐに私は死ぬでしょう。死んだら大君に私は奉仕しましょう。私の角は御笠の飾り、私の耳は御墨坩の飾り、私の目は真澄鏡に、私の爪は御弓の弓弭に、私の毛は御筆の飾りに、私の皮は御箱の皮に、私の肉は御膾の材料に、私の肝は御膾の材料に、私の眩は御塩つけの材料に、年老いた奴である私の体一つに、七重の花が咲く、八重の花が咲くと。大君に申し上げて誉めてください。申し上げて誉めてください」といへり。

右謌一首、為鹿述痛作之也
注訓 右の謌一首は、鹿の為に痛みを述べてこれを作れり。


集歌3886 忍照八 難波乃小江尓 廬作 難麻理弖居 葦河尓乎 王召跡 何為牟尓 吾乎召良米夜 明久 若知事乎 謌人跡 和乎召良米夜 笛吹跡 和乎召良米夜 琴引跡 和乎召良米夜 彼毛 令受牟跡 今日々々跡 飛鳥尓到 雖立 置勿尓到雖不策 都久怒尓到 東 中門由 参納来弖 命受例婆 馬尓己曽 布毛太志可久物 牛尓己曽 鼻縄波久例 足引乃 此片山乃 毛武尓礼乎 五百枝波伎垂 天光夜 日乃異尓干 佐比豆留夜 辛碓尓舂 庭立 碓子尓舂 忍光八 難波乃小江乃 始垂乎 辛久垂来弖 陶人乃 所作龜乎 今日徃 明日取持来 吾目良尓 塩漆給 時賞毛 〃〃〃

訓読 おし照るや 難波の小江(をえ)に 廬(いほ)作り 隠(なま)りて居(を)る 葦蟹(あしかに)を 大君召すと 何せむに 我(わ)を召すらめや 明(あきら)けく もし知ることを 歌人(うたひと)と 我を召すらめや 笛吹(ふえふき)きと 我を召すらめや 琴弾(ことひき)きと 我を召すらめや かもかくも 受(う)けせしむと 今日今日と 飛鳥に至り 立てれども 置勿(おくな)に至り つかねども 都久野(つくの)に至り 東(ひむがし)の 中の御門(みかど)ゆ 参入り来て 命(みこと)受くれば 馬にこそ ふもだしかくもの 牛にこそ 鼻(はな)縄(なは)はくれ あしひきの この片山の もむ楡(にれ)を 五百枝(いほえ)剥(は)き垂(た)れ 天照るや 日の異(け)に干(ほ)し さひづるや 唐臼(からうす)に搗き 庭に立つ 手臼(てうす)に搗き おしてるや 難波の小江(をえ)の 初垂りを からく垂り来て 陶人(すゑひと)の 作れる瓶(かめ)を 今日行きて 明日取り持ち来 我が目らに 塩漆(ぬ)りたまふ ときにはやすも ときにはやすも

私訳 照り輝く難波の入り江、小屋を作って隠れている葦蟹を大君が召されるという。どうして私を召されるはずがあろう。はっきりと、もし、大君が召していると知らされたことが「詩を歌う人として私を召されるのでしょうか、笛を吹く人として私を召されるのでしょうか、琴を弾く人として私を召されるのでしょうか」と想い、とにもかくにも御命令をお受けしようと、今日の今日と急いで飛鳥に至って、立っているのに「置くな」と云われる「置勿」に至って、杖をつかないのに「都久野」に至り、東の中の御門から参り入って来て、御命令を受け取ると、馬にこそ絆は掛けるもの、牛にこそ鼻縄はつけるものだのに、足を引くような険しいこの片山のもむ楡の皮を五百枝に剥いで糸にして垂らし、空に照る日に毎日干して、囀るような唐臼で搗き、庭に据え置いた手臼で搗き、照り輝く難波の入り江の、塩付けの最初の雫くが辛く垂れて来て、陶器人が作る瓶を今日行って、明日に取り持って来て、私の目に塩をお塗りになられた。そのときは誉めてください。誉めてください。

右謌一首為蟹述痛作之也
注訓 右の謌一首は、蟹の為に痛みを述べてこれを作れり。
ちなみに以下の解説もある
乞食者の詠む歌
 この「乞食」をどのように訓むかで、歌の解釈は大きく変わってきます。普段に目にする解釈では、当然に「乞食」は「ほかい」と訓みます。この「ほかい」は「祝言」とも表記する場合がありますから、物事を口上や演技で寿ぎ、それで対価を得るような意味合いとなり、ある種の遊行芸人の意味合いを持ちます。そこで、この「乞食者の詠む歌」の二首は、遊行芸人による門付けの寿ぎの歌と解釈されています。
 ところが、奈良時代の「乞食」の本来の読みである「こつじき」と訓みますと、この「乞食者の詠む歌」は、仏法の十二部経の内の本生(ほんじょう)経や行基菩薩に関係するようなものになり、非常に仏教色の強い歌として歌の性格を変えます。つまり、法隆寺の玉虫厨子で見られるような奈良時代の人々には馴染みある薩埵王子や雪山王子の因縁物語を民衆に対して、身近なもので判りやすい形に置きなおしたと考えることも可能です。
 この歌が詠われた時代は、ちょうど、行基が民衆に入り、実践の民衆教化と社会事業を行う時に重なります。この支配者階級出身の僧侶が下層民衆に入り、その僧侶が民衆に施しと教化を行うと云う世界は、戦後の法事を主体とする近代仏教ではなじみのない世界ですので想像が困難ですが、当時に、仏法の精神に基づいて、それを実践した行基が残したと云う和歌を見ますと法華経提婆達多品での仏の姿を詠うものです。そこから想像するに、行基の行いは本生経と精神を同じにします。
 つまり、「乞食者の詠む歌」の世界は、根本仏法の精神である他生を救うために自らの生を与えたり、国王でありながら衆生救済の真理を得るためなら奴隷になると云う姿に重なって来ます。その宗教的な背景に、行基が行った社会事業での集団労働歌の性格を加えたとするならば、この「乞食者の詠む歌」の描く世界であり、口調ではないでしょう。この口調には、スコップを持つ私に相応しい集団労働歌である「よいとまけ」のような世界があります。
 飛躍しますが「乞食」の漢語を「こつじき」と訓みますと、この歌に東大寺建立の時の労働奉仕のような感覚を感じてしまいます。当然、普段の万葉集の解説では、万葉集の歌々に仏法の姿は薄いとしますから、ここでのように全面的に仏法の姿を認めることは、邪道も邪道、その極致です。